昭和57年9月16日朝のご理解
                  入力者 大坪寿子
御理解第81節

氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。

えー、昨日も確かここだっと思うんですが、神様が、うーん、私どもに願うておられる願いの切実さを感じるのですけれども、向こうへ降りたら安心じゃとこういう。これはあたくしは神様のご安心だと思うですね。氏子が一生懸命信心させてもろうて、超えるところも超えて、通るところも通らせてもろうて、しかも向こうへおりたら、それで安心と。もうあの氏子は大丈夫と。どこへおいといても、どんなことがあっても乱れることもなからなければ、ねー、えー、信心をやめたりするようなこともないだろう。いよいよ限りなくおかげを受けていくだろうと、神様が安心してくださる。わたくしどもがそこを超えて、通るところを通って、向こうへついたときに、始めて神様が安心してくださる。その安心が、こちらに、て、まー、照りかえってくると言うのが、私どもが言う、安心のおかげを頂くときではないでしょうかねー。ね。だから神様の安心です。ね、神様のお喜びということやけども、何が一番神様が喜んでくださるかと言うても、ね、子供の一人一人に上に、もうこの人はひとりで立ち行くことがでけると、確信、その思いがでけた時に、親が安心する、ねー、その安心が、子供の安心に繋がる。神様のご安心が、あたくしどもの安心に繋がる。ね、確かに、えー、やはり一つの峠を越える問いことは、えー、見やすい事とは思われませんけれども、ね。「山を越え、山を越えても峠かな」と。それが人生。教祖様はそれを「一生が修行中じゃ」とおっしゃる。ね。そこにはもうすでに、そのー、次の峠を越えることの楽しみとか、喜びといったようなものが、そこにそなわってる。向こうに下りたら安心じゃ。もう、山登りの喜びも、ね。そこに力のついていく喜びというものが、感じられる。ね。ようやく超えたら、また一山と。ね。それも、いうならもうその、楽しみ。信心の喜びさえ感じれれる。修行の尊さ、有難さがわかってくる。またこれで力が受けられるといったような、えー、心の状態が開けてくると言うことが、安心でもありましょうし、神様もまた安心してくださる。ね、神様に安心して頂けれる信心を頂きたい。それには私どももやっぱり、信心に一心不乱にならなければいけません。迷うては一心はたちません。今あたくしの朝のご祈念が、あー、ま、1時間20分くらい、控えで30分間。まー、合わせますと、2時間あまりのご祈念の、昨日盛大な総会があって、私のお話を終わらせてもらって、すぐ下がらせて頂いたんですけれども、それから体がずっーと悪くて、とうとう昨日の富久信会にはご無礼するような状態で、今朝も悪いし、えー、手足がこんなにこう腫れて、とにかく夕べは夕食も出来ないような状態でしたから、夜中に、お粥さんだけでも少し頂いとこうと思って、準備してもらったけれども、一口頂いたら、もう頂けません。で今朝に続いております。ね。いうなら体に苦痛を感じるのですけれども、その2時間あまりのご祈念の間は、(咳)体の苦痛と言うものを忘れてしまっています。そのことを、(咳)お礼申させて頂いておりましたら、「我を忘れる」ということを頂きました。一心とはこう、我を忘れることだと思うですね。まーだ難儀があるやらこれやらと、いっぱい感じれれるというときにはね、まだ一心ではない。もう神様に向かって一心不乱、ご祈念をさせて、もう痛いもなからなければ、気分の悪いもない。もう我を忘れてご祈念をする。私はそういう信心がだんだんでけてこなければね、あの、いわゆる、ここは一頑張り超えなければというような熱情も生まれてこないと思うですね。やれやれ少しおかげ頂くと安心、やれ、ほんとの安心ではない。やれやれ安心であって、ね、それこそやれやれである。ね。そしてなら昨日のご理解で頂くように、いわゆる堂々周り、おかげを受けておるけれども、それは堂胴回りである。日勝り、月勝りにも、年勝りにもならないのである。代勝りのおかげ。
 今日あたしご祈念中に、まー合楽の信心が、あたくしを中心にしてだんだんこう道が開けてきて、もうまさに日勝り、月勝り、年勝り。のおかげである。ね、そこでそれが代勝りのおかげともなるというおかげを頂く。そこにならあたくし4人のの息子がおりますが、神様は士農工商としての、実と力を与えようとなさっておられる。いうならあたくしの全ての信心を、4人の息子達が分担していただくことになれば、一つの大きな力である。それに、娘達がおりますが、3人ともお道の教師を拝命しております。それと同時にここに、まー、あー、修行いたしております、修行生の先生方が、まー5、5、60人もありましょうか。ね。その方たちがわたくしの信心を、ね、継承してくださる、受けてくださって、例えば私がなくなっても、その、子供達やら、わたくしの信心を本気で頂いてくださった、あたしの手にも足にもなろうと願いを立てて、修行しておられる先生方によって、いわゆる代勝りのおかげと言うことになるのじゃないでしょうか。けどそういうことを、しきりにご祈念中に頂かしてもろうて、ちーっと代勝りということが不安なおもいもあったけど、そうだなー、子供だけじゃない、これだけたくさんな、修行生の方たちが、あたくしの信心を頂こうとして、それが、なら少しずつでもそれを継承して、頂いて継承してくださることが、そのまま代勝りだなーと。それにもまして、ならここにたくさんな御信者がある方たちが、ね、合楽の信心の、これだけは自分の血にした、肉にしたといわれる方たちがたくさんおられますから、その方たちが繁盛し行くことになれば、いよいよ合楽教会は代勝りと言うことになるのじゃないでしょうか。それにはねー、いわゆる、迷いが、威信とは迷いがのないこととおっしゃるから、迷いのない一心、しかも不乱である。どんなことがあっても、ね、乱れない。それにはただ、信心の情熱というだけではなくて、ね、その打ち込みというものが、我を忘れて。
ね、きのう、おー、御用のことのお話が出ましたが、ね、ほんとにね、お道の信心は、うーん、日参、聴教、心行、信行、家業の行と言われるが、家業そのものが御用になるところまで、高めなければ、御用じゃないです。ねー、今日は例えば、商売では、ならいくら儲かった、いくら損したと、一喜一憂しておるようなことではない。ねー、こりゃもう、百姓、商売人、ね、あらゆるその行をもっておる人たちが、ね、それこそ我を忘れての御用でなからなけりゃ、ほんとの御用ということにはならん。ね。いうならば修行である。わたくしの用では、家業の行と言う行にならんのです。ね。御、用である。だからこれを極め、これにはたして教は一生懸命に働かせてもらったが、はたして御用になっておっただろうか。ね。それが私用になっておるのでは、行にはならない。お道の信心では、火の行じゃ、水の行じゃといわない。もう心行ひとつじゃと。その心行というのは、ね。家業の行そのものが行になったとき、御用になったとき、それが行です。これからこれまですれば、いくらになるといったような、そろばんずくのものではなくて、ね、ほんとにこれはしかし、やはりあのー、難しいと思いますね。自分の頂いておる御用が、ほんとに御用としての、「はー今日こそほんとの良い御用がでけた」とお礼の申せるれるような、あたくしは信心が、ね。そこからね、いうならば、きょうはいくら儲かったではなくて、ね、もう儲けなんかのことは、たとえ商売人でいうならば、忘れてしまっておる。ただお客さんが喜んでくれさえすればちうのが、わたくしは、合楽理念に基づく商売人の根性でなからなけりゃならないと思うです。お客さんが喜んで下さりさえすれば、そこには自分の我情我欲はいうておれんのです。ね、商売して損せろと言うのじゃないです。儲かっていいです。十分儲かるところには儲からなければなりませんけれども、私情ははさまない。お客さんが喜んでさえ下さればという、情念に燃える。いうならそれこそ、我を忘れた御用ということになるのじゃないでしょうか。売れ行きとかもう、忘れてしまっている御商売。ね、これは商売だけじゃやりませんよ。お百姓にしてもそうでう。ね。いわゆる我を忘れての、いうならば、あー、行であってはじめて御用ということが言えるのじゃないでしょうか。ね。そういう御用が御用になるときに、神様はその喜びを与えて下されないはずがない。いわゆる、御用の楽しみ、喜びということにも、もうつながってくるわけです。ね、難しいといやー難しいけども、その難しいそういう、たとえば、一心不乱とかね、うーん、えー、我を忘れてと言うようなことが、自分の体の、これ確かにそうですもんねー。あたくし、昨日体が、ずっと、ああしてみなさんに、あのー、お話を聞いていただいて、えー、30分ということでありましたけれども、40分話されましたよと言うて後で聞いたんですけれども、その40分間お話をしておる間に、あーここが痛い、苦しいとぜんぜん思わないですねー。うん。降りたとたんに、体のまー、あーちょっと変調が今、(?高揚)になるというようなものを感じます。一心不乱です。我を忘れて。とにかく人が助かりさえ出来ればの精神で、お話をしておるからです。ご祈念もそうです。2時間あまりのご祈念の間に、ね、もう今日は簡単にと言ったような心が起こってこない。やっぱり願うとこは願わなければ、ご祈念の座はたたれない。そして自分の苦痛も忘れてしまうっておる。ね。だから難しいですけれども、我を忘れてとか、一心とかという、その一心が立つ稽古を、させていただくと言うこと。ね。そういう信心がでけるときに、あたくしはね、峠を越すこともまた楽しい。向こうに下りたら安心と、神様が安心してくださる。その神様が喜んでくださる、安心してくださる喜びが、安心がこちらに帰ってくる、そこに、安心のおかげと言うことになるのじゃないでしょうかね。えー、やはりそこに焦点をおいての稽古ですから、ね、一つ皆さん、我を忘れての、信心がでけるような、ね、信心を進め、求めていただきたいと思います。どうぞ。